ジャミラは人間に戻りたかったのか。

わたしは人間なのか。人間とは何なのか。

「沈黙−サイレンス−」を観てきた。

 
 一応ネタバレが嫌な方は映画を見てから読んでね。(予防線)
 
 
 
 この作品を見ようと思ったのは、伊集院光さんがラジオで「観たよ」って言っていたから。
 それくらいの理由で見に行ったのですが、
 思った以上に「私向き」な暗い、七面倒臭い映画だったので気に入りました。
 
 物語の内容としては知っている内容だったのですが、
 映画を観て物語の筋を反芻することによって、自分の脳内が活性化して楽しい状態になれました。
 
 私はこうゆう報われない話が好きなんです。
 いや、この作品を見て「いや、報われているだろう!」という人もいると思うんですが、
 私にとってはこの作品は「正しく報われない人々」が描かれていてとても好感が持てました。
 
 人間って基本的に報われないものだと私は思っているんです。
 報われたと思っていてもそれはそう思い込んでいるだけなのではないかな。
 
 ただ、報われないからと言って不幸ではないと思うんです。
 報われたかどうか、ではなく、報われることなど気にせずに自分の真実を貫けたか、が大切だろうと。
 いやぁ理想型臭い発言ですね。
 
 この作品は「神は沈黙を貫く」というところが肝だと思うんですが、
 この「神」というのは自分の内なる声のことだと私は解釈しました。
 自分で自分に語りかけてみても、聞こえてくるのは自分の問う声だけです。
 耳を傾けている限り、自分の中から声は聞こえません。
 自分が考えて発して初めて内なる声が言葉として聞こえるだけなのです。
 
 神の声が聞こえたかどうかは、あなたの心の中で考えて発した言葉でしかない。
 あなたが聞こえたと考えれば聞こえたのだろうし、聞こえないと考えれば聞こえない。
 問題は自分の内なる声を信じ、行動に移すことができるか、それを続けることができるかだと思うわけです。
 
 踏み絵を踏んで生き残ったキリシタンにも、
 踏み絵を踏まずに死んでいったキリシタンにも、
 きっと心の中で内なる声がしていたはず。
 でも、それは「神の声」ではなく、内なる声。
 神は沈黙を貫く。
 その沈黙の中に答えを見出し、行動するのは自分自身。
 
 だから、誰を責めることもできない。
 踏み絵を踏んだ者も、踏まなかった者も、キリシタンを迫害した幕府も、
 もちろん、神を責めることもできない。
 それぞれはそれぞれの内なる声を聞いただけなのだから。
 
 だから「神」という概念は真理たり得るものとして未だに人間の信じる存在として君臨し続けているのではないかなと。
 
 こうゆうことを考えながら報われない日々をそれでももがきながら生きている。
 そうゆうことをもっともっと楽しみたいなぁと思う今日この頃です。

ウルトラマンギンガ、ギンガSと見進めて参りました。

 
 アマゾンプライムで動画を見るばかりの生活を送っております。
 ウルトラシリーズ遡り視聴もギンガまで来ました。
 ギンガ(無印)からギンガSへの落差がすごかったですね。
 
 ギンガ(無印)は「涼宮ハルヒの憂鬱」だなぁと感じました。
 閉鎖空間の中で行われる無意味なようで世界の存亡をかけた日常(SFテイスト)
 それは意図的にそうなったというよりは、予算的な制約の中で毎週ウルトラマン的な作品をでっち上げるためのギリギリの選択だったのかもしれません。
 ただ、「涼宮ハルヒの憂鬱」という作品が、それまであまりアニメを見なかった層をアニメへと誘導したり、アニメを見なくなっていた層のアニメ熱を再発させたりしたという話は有名です。
 この「ギンガ(無印)」という作品にも、長らく途絶えていたウルトラシリーズに新たなブームを巻き起こす起爆剤的な作品としての位置付けがあったのではないかと思いました。
 
 今作では主人公の青年は、ウルトラマンに変身する前に「怪獣の人形(スパークドールズ)」を使って怪獣に変身します。
 ウルトラマンに変身する時にも、変身アイテムとウルトラマンの人形を組み合わせるという儀式が行われます。
 これは視聴者(子供)がウルトラマンを見て、作品に感化されて遊ぶ「人形遊び」を番組内でメタ的に行なっているわけです。
 長らくウルトラシリーズが途切れてしまったことで子供達の間で起こっている「ウルトラマン離れ」に対する円谷プロの対策がこの「ウルトラマンを見たらその後は人形で遊ぼう作戦」なのです。
 ウルトラマンを支えるグッズはひとえに怪獣やウルトラマンの人形。
 長らく武器を使わなかったウルトラマンの収入源は人形だったのです。
 少年たちが自らの身体をウルトラマンや怪獣に見立てて取っ組み合い遊びをしてしまっては、グッズも売れず、怪我や事故の原因になって親御さんから苦情が来るかもしれません。
 そんなセンシティブな子供周りの事情と、製作者サイドの大人の事情を見事に解決する秘策として「ウルトラマンを見たらその後は人形で遊ぼう作戦」を確立した作品が今作「ウルトラマンギンガ」なわけです。
 
 これが当たったんでしょうね。
 
 後作品の「ギンガS」では、仮面ライダーに習って「二号ウルトラマン」の投入によって作品を盛り上げ、
 ウルトラマンに積極的に武器を使わせるなど、シリーズ存続に向けた対策をことごとく投じ、その成果をあげていったのでしょう。
 
 製作者サイドの体力を回復させ、作品に本腰を入れて取り組む体制を整えることで、その後の「エックス」や「オーブ」では作品の内容的にもより濃いものを作ることに成功したわけですね。
 今後も良質なウルトラシリーズが続いていくことを切に願っております。
 
 さて、遡り視聴も次はウルトラマンゼロが出て来る作品を見ればいいんでしょうが、
 残念ながらアマゾンプライムにはゼロの出て来る作品がアップされていないようです。
 なので今はメビウスを見ています。
 遡りの旅はなおも続く。 
 
 

ウルトラマンエックスも割と許せた。

 
 アマゾンプライムは着々と私を動画漬けにしています。
 
 オーブを許せたという話はこの前の記事で書いたんですが、
 先日、オーブの前作品であるところの「ウルトラマンエックス」も見終わったわけです。
 エックスはリアルタイムで2話、3話あたりまで見て止まってしまっていたんですが、
 アマゾンプライムのおかげで一気見できたわけです。
 やはり私の中には毎週新作を待つというエンジンは凍りついてしまった様です。
 ただ、一気見したことで作品のシリーズ構成を感じながらシリーズ全体を一つの作品として楽しむことができたので、各話のクオリティの差などはあまり気にならずに自分なりの楽しみ方を見つけられたように思います。
 
 オーブが仮面ライダーを代表される「変身ヒーロー」的な作品として楽しんだのに対して、エックスは「バディーもの」として楽しみました。
 主人公の青年「大地」とウルトラマン「エックス」の掛け合いが楽しい作品でした。BLエンジンを全開にして楽しみました。
 「異種バディーもの」しかも、「戦闘中はバディーと一心同体」というかなり高度な妄想領域を活用するエキサイティングな視聴体験だったわけです。
 今までウルトラシリーズにおいてはおなじみだった人間とウルトラマンが一心同体になるという設定が、思わぬ新解釈で現代的にリブートされていました。
 私が慣れ親しんだ昭和期のウルトラマンではあまりたくさん描かれなかった「主人公とウルトラマンの対話」という部分を、「エックス」では「一心同体になっても主人公とウルトラマンの人格が別れたまま」という設定で深く描写していくというのは、「リブートする」という意味では良い仕掛けだなぁと思いました。
 スマホウルトラマンが宿っているという設定も、某ラブ○ラスを彷彿とさせる現代的で面白い設定でした。
 そう、「エックス」は「大地」の…なわけです(笑)
 スマホ依存症ならぬ、「エックス依存症」な訳ですね。
 
 これくらい大胆な切り口で、細かい部分を気にせずに作品を楽しむというのもアリじゃないかなと思うわけです。
 
 エックスの特撮はとてもクオリティが高くて良いシーンが多かったように思いますし、防衛隊「Xio」が出しゃばりすぎず、空気すぎずのいい立ち位置にいてくれたのも良かったと思いました。
 と普通のフォローも入れてみる…
 
 次はギンガを見ようと思います。
 

立川談笑の独演会へ行ってきました。

 

 
 新潟は昨日から大雪。
 今シーズンはずっと雪が降らずに、「今年は天気予報が降る、降ると言いながら降らないなぁ」と思っていたら、
 昨日今日で大雪。
 街は雪に閉ざされ、気象庁から「不急不要の外出は控える様に」とお達しの出るほどの事態になったにも関わらず、
 そんな日に落語を聴きに行こうと車を走らせるバカにつける薬はありませんね。
 
 それくらいに落語が好きです。
 
 私は特に立川流のファンで、今は亡き家元「談志」は言うに及ばず、志の輔談春、今回聴きに行った談笑。みんな大好きです。会場で売っていた談春独演会のチケットもその場で即買いしてしまいました。
 立川流の落語の特徴は何と言ってもその「理屈っぽさ」から来る古典落語の大胆なアレンジ。
 落語ではおなじみとされている古典の噺であっても、立川流にかかると一味も二味も違う噺へと豹変します。
 
 オーソドックスな落語というのは「演劇」に近いイメージで、古来から伝わっているお話を基本脚本通りに演じる、つまりは「演技力」
によって落語ワールドへ観客を引き込んでいくんです。
 立川流はどの噺家さんも地力が高い、とにかく「上手い」のでその点では他の追随を許さない実力者揃いなのですが、
 立川流はそこに「論理的な考察」が乗っかってきます。
 「現代の価値観で考えるとちょっと合わない」と思われる様な場面が落語には多数存在します。当たり前です。時代が違うんですから。
 その現代とのちょっとした齟齬、噺家自身が感じたちょっとした違和感を立川流は良しとしません。
 しっかりとじっくりとその違和感について考えて、立川流噺家さんたちはそれぞれに自分の答えを出して噺を修正してきます。
 その修正の跡を感じるのが立川流の醍醐味なんです。
 
 今日の談笑の話も、随所に普通の噺家さんはやらない様な修正点を見つけることができる。実に立川流らしい独演会でした。
 
 それではここで、今日の独演会でも披露された談笑さん噺を一つご紹介します。
 「水瓶を値切る」というエピソードの古典落語「壺算」を現代風に大胆にアレンジした「薄型テレビ算」という噺です。
 ぜひ、じっくりとお楽しみください。
 

ポッピンQ観てきた。

 
 ポッピンQを観てきました。若干ネタバレありかな?
 
 
 「プリキュア夢のクレヨン王国おジャ魔女−女児向け」って感じの作品でした。
 女児向け成分を引いているところがこの作品のミソですね。
 女児向けアニメのフレーバーを含ませつつ、上手に「大きなお友達」が好きなように様々な要素をスライドさせて(ズラして)いる辺りがうまいなぁと、
 それと同時に「この作品で一年間のテレビアニメは無理なんだろうなぁ。だから映画一発勝負何だろうなぁ」と。
 
 女の子たちの変身前(パワーアップ前?)のダボっとした衣装とか、
 妖精たちの「いわゆる可愛いデザイン」からはあえて外した感じのデザインとか、
 女の子たちがちょっと鬱屈した暗い精神状態からスタートしている感じとか、
 ラスボスの正体とか、
 色々と「女児向け作品ではNG喰らいそうだな」って点がことごとく「大きなお友達」のツボという感じで、
 特定の層にはウケのいい作品なんだろうなぁと思いました。特に私のような人間には大ヒットでしょう(笑)
 
 ストーリーはとてもベタな感じなのですが、とにかく画面に出てくる物のデザインや動きが我々のような人間のツボをよく心得ていらっしゃる。
 とにかく「ルック」にこだわった作品でした。観ていて気持ちのいいシーンが多かった。
 
 個人的には妖精たちが「勇気のダンス」を踊るシーンが一番好きでした。二頭身で、かつ、絶妙に「いわゆる可愛いデザイン」からズラしたキャラがキレッキレのダンスを踊る。これはなかなかいいです。
 近頃女の子が踊るアニメーションはかなり流行っていて、いろいろなところで見ることができるのですが、どれも細身の頭身高めのキャラが踊るシーンになっているんです。
 今作は「妖精のダンスシーン」や、変身前の女の子たちがダボっとした衣装で踊るシーンなど、今流行りの女の子のダンスシーンとは一味違ったシルエットのキャラが踊るシーンが見られる珍しい作品になっています。
 
 全体的に見ると小粒な作品かなぁという印象でしたが、個人的なツボはしっかり刺激してくれる作品だったので見に行ってよかった。
 続編にも期待ですね。

昨日はN響のコンサートへ行ってきました。

 

 昨日は母とN響のコンサートへ行ってきました。
 ドヴォルザークの「新世界から」を聞いてきました。
 ゲストにジャズピアノで有名な「小曽根真」さんが来ていました。ジャズでも素敵な小曽根さんですが、クラシックでも素晴らしい音色を聴かせてくれました。彼は共演者の性質にスッと寄り添って相手に合わせるのが上手なピアニストだなぁと改めて感じました。
 以前、さだまさしさんとデュオで「防人の詩」をやったのをテレビ(生さだ)で見たのですが、見事にさださんの曲をジャズにアレンジし、さださんの歌をしっかりとサポートする見事な伴奏を聞かせてくれました。
 昨日の演奏では、共演者であるN響のプレーンで癖のない演奏に見事にフィットするソロを聴かせてくれました。
 
 フルオーケストラのコンサートの魅力は何と言っても「音色」
 100人近い人数のプロの奏者が一斉に楽器を演奏している空間の空気がとにかく心地いいんです。
 曲がどうか?演奏の質が?と考える前にまず「楽器の音が作り出す空間の心地よさを感じる」
 これは楽器の生音を聴くことのできるライブでは共通して楽しめるポイントではあるんですが、フルオーケストラはその心地よさのレベルが違います。だって、演奏者が100人もいるんですから。
 音を聞いているだけで脳内でいい感じの物質がドバドバ分泌されている感覚が体感できます。
 これは音楽がわかる、わからないという次元を超えて人間が聴覚で感じることのできることなので、耳の聞こえる人ならば万人が共通して体感できる快楽であろうと思います。
 
 音楽的な話はここでしても長くなるだけなので省略です。
 とにかくみなさんコンサートへ出かけよう!
 

新しいイヤホンには線がない。

 
 年末から続いている物欲魔人の影響で新しいイヤホンを買ってしまった。
 今度は完全に無線のイヤホン。
 左右のイヤホンをつなぐ線すらない。完全独立型である。
 Appleが出した「Air Pods」のほぼ半分の値段だった。
 
 小さいのはネットで見てわかってはいたつもりだったが、実物を見て本当に小さくて驚いた。
 入っている箱も小さくて驚いた。

 
 音はやっぱり「それなり」という感じ。
 ただ、自分としては良い音質で聴きたい時には有線のいいヘッドホンを使うので、音質はそこまで気にしていない。
 それよりも線から解放されるということが一番大きいと感じた。
 部屋でパソコンいじりながら音楽を聴く時にも、線がないというだけでかなり快適。
 
 思ったよりもフィット感があって頭を振ったくらいでは落下の危険性はなさそう。
 自分はジョギングしながら使うことはおそらくないので安心。
 
 問題は電池の持ちがどの程度か。かな。
 今日届いたばかりなのでそのあたりはこれから使って見てですね。